菓遊庵
おいしいモノがたり。
 
菓遊庵こだわりのお菓子
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焼菓子

           

北海道<千秋庵(せんしゅうあん)
山親爺(やまおやじ)

1921年(大正10年)に現在の本店所在地(札幌市中央区)に開業し、『山親爺』が誕生したのは1930年(昭和5年)。
北海道の新鮮なバター、牛乳、鶏卵を使いながら軽やかな味でサクサクした歯応えが何とも言えません。味は発売当時から変えずに製造し続けています。『山親爺』とは道産子が熊を呼ぶ愛称。その熊がスキーをはき、鮭を背負った姿をレリーフにしています。

北海道<三星(みつぼし)
よいとまけ

漁村だった苫小牧に製紙工場が建設され、紙の原料となる丸太を工場で上げ下ろす作業の際「よいとオまいたァ」というかけ声が響いていました。初代社長の小林正俊は幼い頃から耳にしたこの「かけ声」や目にした「丸太」、そして勇払原野に自生する「ハスカップ」を盛り込んだ苫小牧を代表するお菓子づくりに取り組み、1949年(昭和24年)に『よいとまけ』が誕生。丹念に焼き上げた上質カステラで甘酸っぱいハスカップジャムを巻き上げ、さらに外側全体にもたっぷりとジャムを塗ったロールケーキです。ベタつきを防ぐ為、表面をグラニュー糖でオブラートし「日本一食べにくいお菓子」とも呼ばれていますが、その独特の甘さがクセになると多くのファンに支持されている逸品です。

北海道<わかさいも本舗(ほんぽ)
わかさいも

70年を超える歴史の中では、戦争の混乱下、原料である砂糖が手に入らなくなったこともありました。当時世間では、砂糖に代わる人工甘味料がもてはやされていましたが、『わかさいも』にそれらが使われることはなく、実に7年もの間、製造を中止しました。本物の原料だけでつくり続けたい。辛く厳しい時代にあっても、変わらぬ真摯な姿勢と強い情熱が、『わかさいも』を守り抜いてきました。
芋を使わず洞爺湖周辺の大福豆を主原料に餡を作り、芋の筋に見立てて細かい昆布を入れ、焼芋の色にするため卵正油を塗って焼いています。芋に見立てるため皮は非常に薄く、大福豆の餡を使うことで粘りを増し、2つに割ると焼芋を割った時の様に割れ、筋に見立てた昆布が表れます。さつまいもの取れない北海道で、芋を使わずに芋を表現したお菓子です。

北海道<トラピスト修道院(しゅうどういん)
トラピストクッキー

津軽海峡を見下ろす小高い丘の上に建てられた赤レンガの修道院は人気の観光スポット。この北の大地にフランスからトラピストの修道士が来て生活を始めたのが1896年(明治29年)。生活の糧として、トラピストの伝統である農耕、牧畜酪農に力を入れてきましたが、その中から乳製品が生まれ、バター、クッキー、バター飴の製造販売を行って現在に至っています。
酪農を道南でいち早く取り入れたトラピスト修道院が作った、バターミルクたっぷりのクッキー。食べた時のサクサク感が持ち味で、クッキーの表面にはフランス語でルーチェス(パリの昔の名前、東京なら江戸)という文字が型どりされ、古風な中にもハイカラな雰囲気をかもし出しています。

山形県<宇佐美煎餅店(うさみせんべいてん)
からから煎餅(せんべい)

1949年(昭和24年)に創業。当時は、地元で多く食されていた駄菓子を中心に、四季折々の商品を製造販売していました。
『からから煎餅』は、山形県庄内地方に、江戸時代から伝わる郷土性豊かな、夢のある楽しいお菓子です。お煎餅を割ると中からミニ玩具が出てきます。沖縄県産の良質の黒砂糖をたっぷりと使った素朴な味わいです。

石川県<柴舟小出(しばふねこいで )
柴舟(しばふね)

1917年(大正6年)に初代定吉が金沢市の六斗林に小さな仕事場を構え、菓子づくりを始めました。二代目弘夫の創意工夫と努力によって今の柴舟(ほどよい反りかげんの小判型に、うっすらと雪をはいたような白砂糖の化粧引き)が作られました。柴舟は藩政期から庶民に親しまれてきたお菓子です。上白糖と生姜汁を煮沸して冷却した後、さら摺り戻した蜜を一枚ずつ刷毛でていねいに手で塗って一晩乾燥させています。今でも昔と変わらない製法でつくられています。

大阪府<喜多林堂(きたりんどう)
有平糖 割板(わりいた) (きん)ごま・(くろ)ごま

有平糖菊の露本舗喜多林堂は1895年(明治28年)初代鶴澤伝六により大阪の宗右衛門町にて創業しました。「有平糖菊の露」は白双糖のみを使用した昔ながらの直火焚きの手造りの飴です。
「有平糖割板」は金ごま・黒ごまをそれぞれ飴でからめて煎餅状にのばしたもの。銅鍋を用い直火により煮詰めるため火詰め温度が高く歯当たりの良い上品な甘さの飴菓子に仕上げています。見た目よりも柔らかく歯にもつかないのが特長。あっさりとした飴の甘さと炒りたてのごまの香ばしい風味とが程よく溶けあった商品です。

京都府<本家尾張屋(ほんけおわりや)
蕎麦板(そばいた)

「やんごとなき御方より召されて、山鳥の尾張の国より都にまいりしは、室町時代花の御所の時なり」と家譜に伝える本家尾張屋。1465年(寛正6年)に、菓子司として始まり、次第にそば処としても、京の町衆に親しまれるようになりました。また、江戸時代には御用蕎麦司をつとめ、宮中へそばをつくりに伺うこともしばしばありました。 今、時は移り人は変わっても、暖簾とともに育まれた技と心は、大切に伝えられ、時代ごとの味の工夫を合わせて、ほのかなそばの香りとなって皆様に愛され続けています。現在もそばは吟味した上質のものしか使わず、たしかな伝統の味わいを守り続けています。
手打ちした蕎麦の技法で薄く伸ばした生地を一文字釜で一枚一枚丹念に手焼きしています。蕎麦粉をたっぷり使用し甘味をおさえてありますので、蕎麦の香りを存分にお楽しみいただけます。

京都府<総本家河道屋(そうほんけかわみちや)
蕎麦(そば)ほうる

元禄の頃創業。菓子と蕎麦(飲食)を商うことから始まり現在に至ります。
十三代目当主「河道屋安兵衛」が明治時代初めの頃、南蛮菓子の手法を蕎麦に応用し、工夫を重ね作り上げたお菓子です。『蕎麦ほうる』の名前の由来は、そもそも「ぼうる」とはポルトガル語、オランダ語の「ボール」という言葉が訛ったものからきており、蕎麦に応用して作り上げたお菓子のために『蕎麦ほうる』と名付けられました。梅の形に焼き上げられていますが、梅の形自体に特に意味はなく、ただ昔より梅の形はお目出度いとされていたために使われたのではないかといわれています。

岡山県<橘香堂(きっこうどう)
むらすゞめ

お菓子が初めて日本に入って来たのは奈良時代で、それ以前は菓子と言えば果物のことでした。橘は栽培される果物の始めであり、四季を通じて実・花・葉のいずれかがあり、芳ばしい香りを持っています。従って菓子の祖と言うことになります。明治初期に郷土の先覚者林孚一翁は、菓子の祖橘の香りから「橘香堂」と命名されました。 『むらすゞめ』は、1877年(明治10年)橘香堂初代吉本代吉が創製しました。外皮は、卵風味のソフトな和風クレープの様に丸く焼き、表面に気泡をこしらえ、稲穂に群がる雀を表現、中餡に甘みを押さえて丁寧に炊き上げた北海道産の小豆粒餡を、すげ笠状に包み込んでいます。外皮と中餡が調和し、その甘みが口の中で溶け合うハーモニーこそ『むらすゞめ』の持つ独特の味わいです。

山口県<江戸金(えどきん)
(かめ)甲煎餅(こせんべい)

1862年(文久2年)当時下関は赤間ヶ関と呼ばれていた頃、創始者増田多左衛門は江戸で生まれました。長崎でオランダ・ポルトガルの菓子作りを学び、帰る途中、兄がいた長州藩に立ち寄ったのが縁で、下関の『亀の甲煎餅』を焼きはじめました。多左衛門の幼名が金次郎であったことから「江戸からきた金さん」と地元で親しまれ、屋号を「江戸金」と称しました。 下関の氏神である亀山八幡宮のいわれと、亀は万年の縁起に因み『亀の甲煎餅』と名づけました。亀の甲煎餅は砂糖・小麦粉・鶏卵を配合し、白胡麻・ケシの実を合わせて、定温で蔵し熟成させた独特の水種を型に入れて回転焼きしています。パリッとした歯ごたえ、口に入れるとトロリと溶けるような味のある風味、油を使わずに焼き上げた艶やかな光沢が特長です。

愛媛県<一六本舗(いちろくほんぽ )
一六(いちろく)タルト

タルトは久松家初代松山藩主松平定行公が南蛮菓子タルトに接し、製法を長崎から松山に持ち帰り伝えたといわれています。南蛮菓子タルトは、カステラの中にジャムが入ったもので、現在のような餡入りのタルトは、定行公が独自に考案したものと思われます。その後、久松家の家伝とされ、明治以降、松山の菓子司に技術が伝わり、四国の名産となりました。一六本舗の創業は1883年(明治16年)。創業の明治16年にちなんで一六という屋号を命名しました。四国特産の生柚子の香りと白双糖のまろやかな甘さで独特の餡をつくり柔らかいスポンジ生地で巻き上げました。お召し上がりやすいようにスライスしてあります。

高知県<西川屋老舗(にしがわやしにせ)
ケンピ

西川屋はその遠い祖先が土佐の国夜須出口において白髪素麺・麩・菓子を製造し山内一豊が1601年(慶長6年)御入国の時から御用商人としてお仕えしていました。1688年(元禄元年)当時の主人西川屋才兵衛が現在の地赤岡町に居を移し店舗を横え一般にも売出し、そして土佐藩の御用菓子司として永く御用命を拝受したのです。 ケンピは西川屋の祖先が土佐藩主の御用をいただいていた白髪素麺・麩の製法からヒントを得て作ったもので、小麦粉を練って薄くのばし、細く切ったものを適当な長さに切りそろえて焼きがまで焼いた、極く素朴な干菓子で、当時の山内藩主に献上いたしました所、深く賞賛せられました。この干菓子をその堅い処から堅干(ケンピ)と名付け広く一般にも売出したのであります。

佐賀県<北島(きたじま)
丸芳露(まるぼうろ)

1696年(元禄9年)創業。佐賀県の白山町の一角に数珠屋として開業。享保年間(1716~1734年)には事業規模も拡大し、諸式屋として鍋島藩の御用商人にとりたてられました。幕末期には時勢の急激な変転により製菓業に専念することとし、南蛮菓子の製法を伝える佐賀伊勢屋町の横尾家にマルボーロの製法を習い、家業としてこれに取組みました。 マルボーロは、本来ポルトガル船員たちの保存食であったと伝えられており、現在よりやや小さくて固くクッキーのようなものだったといいます。明治の初めに八代・香月八郎と九代・香月安次郎の父子は、マルボーロをより食べやすく味わい深いものにするよう改良に改良を重ね、苦心の末に現在の『丸芳露』を完成させました。 北島の『丸芳露』は、小麦粉・砂糖・鶏卵の厳選された三つの材料を基本にその微妙な配合によって、柔らかでさっくりとした口溶けの良いおいしさを特長としています。

大分県<ざびえる本舗(ほんぽ)
ざびえる

1551年(天文20年)豊後の国を訪れたフランシスコ・ザビエルは大友宗麟の庇護を受け、大分の街に南蛮文化の花を咲かせました。その功績を讃えて、和洋折衷菓子の南蛮菓『ざびえる』が1963年(昭和38年)に誕生しました。
大分の代表銘菓とも言われている『ざびえる』。精選された白餡とラム酒に漬けたレーズンを刻み込んだ餡の二種類があり、皮はバター風味の生地でくるんだお菓子です。

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