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大阪府<喜多林堂(きたりんどう)

有平糖菊の露本舗喜多林堂は1895年(明治28年)初代鶴澤伝六により大阪の宗右衛門町にて創業しました。「有平糖菊の露」は白双糖のみを使用した昔ながらの直火焚きの手造りの飴です。

鶯林梅(おうりんばい)

「鶯林梅」は沖縄県産黒砂糖とオリゴ糖を煮詰めて、梅肉エキスを練り込んだ商品。甘酸っぱい風味はスポーツやご旅行のお供に最適です。製品になるまでの工程の一部では機械化もしていますがここ一番というところは、やはり人間の五感が必要です。味を創り出すのではなく素材の持っている特長を最大限に引き出すことを第一に製品作りをしています。

有平糖 割板(わりいた) (きん)ごま・(くろ)ごま

「有平糖割板」は金ごま・黒ごまをそれぞれ飴でからめて煎餅状にのばしたもの。銅鍋を用い直火により煮詰めるため火詰め温度が高く歯当たりの良い上品な甘さの飴菓子に仕上げています。見た目よりも柔らかく歯にもつかないのが特長。あっさりとした飴の甘さと炒りたてのごまの香ばしい風味とが程よく溶けあった商品です。

大阪府<()()

そもそも粟おこしが誕生したのは、1752年(宝暦2年)。 それまでのおこしは、手で握ったつくねのようなものや、竹筒に入れた形状しかありませんでした。それを津の清の初代、津の国屋清兵衛(つのくにやせいべい)が、板状に伸ばし現在の粟おこしの形状を確立しました。また、粟おこしと命名された由来は、お米(引割米)の小さな粒が、粟のように見えることから「粟のようなおこし」すなわち、「粟おこし」とされたことにあります。

(あわ)おこし

粟粒のように見えますが、実際は米を蒸して乾燥させ砂糖を加えて型に入れて固めたもの。粟は使用していません。原料を砕く加減を少し粗くして粒を大きくしているので食感は軽めです。

(いわ)おこし

原料は、粟おこしと同じです。粟おこしと比べ、原料をより細かく砕いているため、ほとんど隙間を作らず固い仕上がりになります。岩のような固さを持つため、「岩おこし」の名が付けられました。

生姜(しょうが)おこし

原料(粟粒状にした米)の細かいものが使用されているので隙間が少なく固く感じます。粒を小さくし歯ごたえを固めにしたおこしに生姜味を加えています。

大阪府<総本家釣鐘屋本舗(そうほんけつりがねやほんぽ)
釣鐘(つりがね)まんじゅう

1900年(明治33年)、日本最古の宮寺四天王寺に、大梵鐘が地元有志により奉納され、その記念に釣鐘の鐘の形を模したまんじゅうを四天王寺門前で売り出したのが始まりです。四天王寺参拝のお土産としてなにわ文化を伝える銘菓となりました。
大阪四天王寺の大梵鐘を模し、餡は北海道産の小豆からさらに厳選したものだけを使用。特に口あたりが大切なこし餡には一番挽きの餡を使っています。さらさらとした舌ざわりの餡に仕上げ、かすてら生地としっとりなじみ、優しい味わいです。

奈良県<松屋本店(まつやほんてん )
吉野懐古(よしのかいこ)

創業は1842年(天保13年)。吉野本葛と阿波の和三盆糖を用いて、情緒ゆたかに桜の名所でもある吉野桜を型どって桜の干菓子を創り、『吉野懐古』と命名されました。葛の香りと和三盆糖の淡泊な風味が自慢です。

京都府<聖護院八ツ橋総本店(しょうごいんやつはしそうほんてん)
聖護院八ツ橋(しょうごいんやつはし)

琴の元祖である八橋検校を偲び、琴に似た干菓子を八ツ橋と名付け、参道の聖護院の森で土産品として売り出したのが、その始まりです。以来320年の歴史を経て今日に至ります。
厳選されたウルチ米と砂糖だけでつくる、昔ながらのいつまでも変わらぬ味と姿。肉桂の独特な香りが、古都の風情を思い出させます。

京都府<本家尾張屋(ほんけおわりや)

「やんごとなき御方より召されて、山鳥の尾張の国より都にまいりしは、室町時代花の御所の時なり」と家譜に伝える本家尾張屋。1465年(寛正6年)に、菓子司として始まり、次第にそば処としても、京の町衆に親しまれるようになりました。また、江戸時代には御用蕎麦司をつとめ、宮中へそばをつくりに伺うこともしばしばありました。 今、時は移り人は変わっても、暖簾とともに育まれた技と心は、大切に伝えられ、時代ごとの味の工夫を合わせて、ほのかなそばの香りとなって皆様に愛され続けています。現在もそばは吟味した上質のものしか使わず、たしかな伝統の味わいを守り続けています。

蕎麦板(そばいた)

手打ちした蕎麦の技法で薄く伸ばした生地を一文字釜で一枚一枚丹念に手焼きしています。蕎麦粉をたっぷり使用し甘味をおさえてありますので、蕎麦の香りを存分にお楽しみいただけます。

蕎麦餅(そばもち)

昔、蕎麦粉を団子にして焚き火に入れて焼いたものを「そば餅」と呼んでいました。その呼び名をそのままに伝えた「そば餅」は、上質の北海道産小豆でつくったこしあんをそば粉たっぷりの上皮で包み、天火で焼き上げたそば饅頭です。

京都府<豆政(まめまさ)
夷川五色豆(えびすがわごしきまめ)

1884年(明治17年)、初代角田政吉が京都夷川の地で創業。京名物『夷川五色豆』を考案、大正天皇の献上菓子としても重用、八ツ橋と並ぶ京名物となりました。良質の豆に拘り、独特の製法と「京の湧き水」を使った拘りの仕込みで豆菓子や豆を使った数々の京菓子・和菓子を作り続けています。
商品は王朝以来、幸福を祈るとき必ず使われている瑞色といわれるものを使用しています。青は木、黄は土、白は金、黒は水を表し、大地を象徴するとされています。また京友禅流しを表した色とされています。
厳選された上質のえんどう豆を、京都の清水にて三日をかけて柔らかく水浸しし、ゆるやかな火にかけてじっくりと煎り上げます。豆に煮立たせた砂糖をまんべんなくからめ、この砂糖掛けは五日かけて五回の砂糖掛けを繰り返します。五色の衣をまとった『夷川五色豆』は優雅な姿となるまでに十日間の日数をかけてじっくりと作り上げられます。

京都府<総本家河道屋(そうほんけかわみちや)
蕎麦(そば)ほうる

元禄の頃創業。菓子と蕎麦(飲食)を商うことから始まり現在に至ります。
十三代目当主「河道屋安兵衛」が明治時代初めの頃、南蛮菓子の手法を蕎麦に応用し、工夫を重ね作り上げたお菓子です。『蕎麦ほうる』の名前の由来は、そもそも「ぼうる」とはポルトガル語、オランダ語の「ボール」という言葉が訛ったものからきており、蕎麦に応用して作り上げたお菓子のために『蕎麦ほうる』と名付けられました。梅の形に焼き上げられていますが、梅の形自体に特に意味はなく、ただ昔より梅の形はお目出度いとされていたために使われたのではないかといわれています。

兵庫県<播磨屋利久(はりまやりきゅう)
塩味饅頭(しおみまんじゅう)

創業は1764年(明和元年)。1853年(嘉永6年)、当主治三郎が赤穂の海に沈む半円の美しい夕日の情景に感銘を受け、純白の赤穂の塩を用い甘さを抑えた独特の餡を白砂糖と寒梅粉で包み、清楚な姿の『汐見まん志う』を創製しました。 赤穂の塩を饅頭に取り入れており、赤穂藩の進言もあって改名し、現在に伝承しています。塩の歴史と共に歩み続けた『塩味饅頭』、かたくなに味を守り続けて150年、赤穂藩に献上した伝統の銘菓です。

和歌山県<那智黒総本舗(なちぐろそうほんぽ)
那智黒(なちぐろ)

和歌山県の東南端、新宮市、木材の集散地として知られた城下町で、1877年(明治10年)、黒あめ『那智黒』は誕生しました。
『那智黒』の由来は、紀伊半島中南部を流れる熊野川上流で産出される銘碁石「那智黒石」をかたどって黒あめの型をつくり名付けたのが始まりです。素材にこだわり、伝統を受け継ぐ独自の製法で昔ながらの味を守り続けています。吟味された黒砂糖を丹精込めて直火で練り上げ、独特の風味を残しながらやさしい甘さに仕上げています。

島根県<來間屋生姜糖本舗(くるまやしょうがとうほんぽ)
ひとくち生姜糖・抹茶糖(しょうがとう・まっちゃとう)

來間屋文佐衛門(くるまやぶんざえもん)は、1715年(正徳5年)、幾多の失敗を重ね、日本生姜糖元祖をつくりあげました。以来、その製法を守り、いまでも炭火を使用し、手作りにてつくっています。「出西しょうが」は島根県斐川町の出西地区でしか収穫できない生姜で、その根っこである根ショウガは、辛味が強く、香り高い特長があり來間屋生姜糖本舗の『生姜糖』に使われています。抹茶は島根県内の主たる茶業を営んでいるお茶屋より選りすぐりの抹茶(石臼びきの新鮮な抹茶)を使用。抹茶の若い香りが豊かで「抹茶糖」に使われています。

島根県<桂月堂(けいげつどう)

1809年(文化6年)の創業以来、菓子造りに専念し、受け継がれた手技を守り続けて200年。

薄小倉(うすおぐら)

3日間秘伝の蜜に漬け込んだ大粒の大納言小豆を丁寧に炊き上げ、錦玉(きんぎょく)を流し込み、じっくりと窯で乾燥させた逸品です。乾燥させた表面をパリッと二つに割ると、炊き上げられた大納言小豆と、それを包みこむ錦玉がつややかで美しい仕上がりです。

出雲三昧(いずもざんまい )

諸越粉という小豆を挽いて粉にしたものを用いた落雁、粒入りの羊羹、求肥の三段重ねです。 それぞれの食感が一度に味わえます。

岡山県<橘香堂(きっこうどう)
むらす

お菓子が初めて日本に入って来たのは奈良時代で、それ以前は菓子と言えば果物のことでした。橘は栽培される果物の始めであり、四季を通じて実・花・葉のいずれかがあり、芳ばしい香りを持っています。従って菓子の祖と言うことになります。明治初期に郷土の先覚者林孚一翁は、菓子の祖橘の香りから「橘香堂」と命名されました。 『むらすゞめ』は、1877年(明治10年)橘香堂初代吉本代吉が創製しました。外皮は、卵風味のソフトな和風クレープの様に丸く焼き、表面に気泡をこしらえ、稲穂に群がる雀を表現、中餡に甘みを押さえて丁寧に炊き上げた北海道産の小豆粒餡を、すげ笠状に包み込んでいます。外皮と中餡が調和し、その甘みが口の中で溶け合うハーモニーこそ『むらすゞめ』の持つ独特の味わいです。

岡山県<廣栄堂(こうえいどう)

廣栄堂は、廣瀬屋という瀬戸物屋から、1856年(安政3年)にお菓子屋に変わったのが始まりです。黍の粉を蒸して作られていた当時の「きびだんご」を初代武田浅次郎が茶席用として、黍の代わりにもち米を用い、当時は貴重だった上白糖と水飴を混ぜて柔らかいだんご生地にし、風味づけに黍粉を加えることで、現在の「きびだんご」とほぼ同じ製法が完成しました。

元祖(がんそ)きびだんご

人気絵本作家・五味太郎氏のかわいらしいパッケージで、見た目にも楽しくちょっとしたお土産、おやつとして喜ばれています。さらに、一個一個を包む包装紙にも桃太郎と仲間達のイラストが入っています。上質のもち米に、水飴、砂糖を加え練り上げ、風味づけに黍粉を加えた『元祖きびだんご』はほんのりと甘くやさしい味わいです。

黒糖(こくとう)きびだんご

『元祖きびだんご』同様、五味太郎氏によるかわいらしいパッケージです。材料に国産の黒砂糖を加えた『黒糖きびだんご』はコクと深みのある味が特長です。

広島県<やまだ()
もみじ饅頭(まんじゅう)

やまだ屋は1932年(昭和7年)宮島で『もみじ饅頭』の製造元として創業しました。『もみじ饅頭』は、明治時代に伊藤博文が宮島を訪れた際、紅葉谷の茶屋でお茶を出した娘の手を見て「この可愛い手を焼いて食べたらおいしかろう」といった冗談をヒントにして考案されたというエピソードが流布しています。小豆の外皮を取り除き炊き上げ砂糖と共に練り上げたさらし餡を、卵たっぷりのカステラ生地でふんわりと焼き上げました。

山口県<江戸金(えどきん)
(かめ)甲煎餅(こせんべい)

1862年(文久2年)当時下関は赤間ヶ関と呼ばれていた頃、創始者増田多左衛門は江戸で生まれました。長崎でオランダ・ポルトガルの菓子作りを学び、帰る途中、兄がいた長州藩に立ち寄ったのが縁で、下関の『亀の甲煎餅』を焼きはじめました。多左衛門の幼名が金次郎であったことから「江戸からきた金さん」と地元で親しまれ、屋号を「江戸金」と称しました。 下関の氏神である亀山八幡宮のいわれと、亀は万年の縁起に因み『亀の甲煎餅』と名づけました。亀の甲煎餅は砂糖・小麦粉・鶏卵を配合し、白胡麻・ケシの実を合わせて、定温で蔵し熟成させた独特の水種を型に入れて回転焼きしています。パリッとした歯ごたえ、口に入れるとトロリと溶けるような味のある風味、油を使わずに焼き上げた艶やかな光沢が特長です。

愛媛県<一六本舗(いちろくほんぽ)
一六(いちろく)タルト

タルトは久松家初代松山藩主松平定行公が南蛮菓子タルトに接し、製法を長崎から松山に持ち帰り伝えたといわれています。南蛮菓子タルトは、カステラの中にジャムが入ったもので、現在のような餡入りのタルトは、定行公が独自に考案したものと思われます。その後、久松家の家伝とされ、明治以降、松山の菓子司に技術が伝わり、四国の名産となりました。一六本舗の創業は1883年(明治16年)。創業の明治16年にちなんで一六という屋号を命名しました。四国特産の生柚子の香りと白双糖のまろやかな甘さで独特の餡をつくり柔らかいスポンジ生地で巻き上げました。お召し上がりやすいようにスライスしてあります。

高知県<西川屋老舗(にしがわやしにせ)
ケンピ

西川屋はその遠い祖先が土佐の国夜須出口において白髪素麺・麩・菓子を製造し山内一豊が1601年(慶長6年)御入国の時から御用商人としてお仕えしていました。1688年(元禄元年)当時の主人西川屋才兵衛が現在の地赤岡町に居を移し店舗を横え一般にも売出し、そして土佐藩の御用菓子司として永く御用命を拝受したのです。 ケンピは西川屋の祖先が土佐藩主の御用をいただいていた白髪素麺・麩の製法からヒントを得て作ったもので、小麦粉を練って薄くのばし、細く切ったものを適当な長さに切りそろえて焼きがまで焼いた、極く素朴な干菓子で、当時の山内藩主に献上いたしました所、深く賞賛せられました。この干菓子をその堅い処から堅干(ケンピ)と名付け広く一般にも売出したのであります。

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