美術

【展覧会延期のお知らせ】梅津庸一キュレーション展 フル・フロンタル 裸のサーキュレイター

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2020/05/07 UP

この度MITSUKOSHI CONTEMPORARY GALLERYは美術家・梅津庸一のキュレーション展「フルフロンタル 裸のサーキュレイター」を開催いたします。

 

梅津庸一は1982年、山形県生まれで現在は神奈川県の相模原を拠点に活動する美術家です。ラファエル・コラン (1850-1916年) の代表作『フロレアル』を自らに置き換えた『フロレアル (わたし)』(2004-2007年)でデビューしました。その後も、絵画や美術が生み出される地点に関心を抱き制作に取り組んできました。2017年には愛知県美術館のコレクションと自作を組み合わせてキュレーションした個展「未遂の花粉」を開催し話題を呼びました。また2014年からは美術教育と美術運動の歴史を再考する美術の共同体「パープルーム」を主宰しています。梅津は絵画を中心としながらも、映像、陶芸、展覧会の企画、ギャラリーの運営、美術教育、テキストの執筆など様々な領域を横断しながら活動してきました。

本展は、そんな梅津の特性が遺憾なく発揮される機会になります。40名以上に及ぶ作家と自身の絵画作品、黒田清輝の『智・感・情』(1899年)を11点組の作品に拡張する『フル・フロンタル』(2018年-)のうちの5点、フェルディナント・ホドラーの『昼』(1899年)を下敷きにした『昼‐空虚な祝祭と内なる共同体について』(2015-2020年)などの大作をはじめ、本展のために描かれたドーイングや陶芸作品も展示されます。ちなみにフェルディナント・ホドラーの『昼』は1899年に、黒田清輝の『智・感・情』は1900年のパリ万国博覧会におり、それぞれ出展されています。

梅津は一貫して日本の近代美術の成立やその背景について言及し続けてきました。日本橋三越本店を会場として選んだことにも、必然があったと言います。

 

「日本橋三越は110年を超える歴史があります。戦前には、近代フランス絵画を導入しつつ、黎明期の日本画における重要な展覧会をいくつも開催し紹介してきました。美術館やギャラリーの機能が百貨店に求められていたのです。それが高度成長期に入り、美術館が全国に建てられ、百貨店美術画廊の役割も変化してきました。今は公募団体に所属する作家を紹介する場として機能しています。現代アートの作家にとっては馴染みのある場所とはいい難いかもしれませんが「日本の美術」の歴史を語る上で百貨店は外せません。」(梅津)

 

「日本の美術」という言葉の中には、さまざまな意味が含まれています。歴史、表現分野、教育制度、コミュニティ…それらが複雑に折り重なって「日本の美術」は成立しています。価値観が多様化する現代において、一方向からの視点ではその全体像を掬い取ることは困難です。本展覧会は、有名・無名を問わずに選ばれた現代の作家から物故作家らの作品までが一堂に会します。それは「日本の美術」のありようを再考する試みと言えるでしょう。

 

本展が「日本の美術」に対する問いかけとなることを願ってやみません。

是非ともこの機会にご高覧いただきますよう、お願い申し上げます。

 

 

【出展作家】 

梅津庸一 島田章三 宮崎洋子 シエニーチュアン 長谷川利行 新関創之介 内田一子 トレバー・シミズ 兼田なか 桑原正彦

播磨みどり 岡本秀 山形一生 山本桂輔 COBRA 馬越陽子 合田佐和子 山田優アントニ 有元利夫 高山辰雄 瑛九

坂本繁二郎 青木繁 織田廣喜 麻田浩 續橋仁子 難波田龍起 オノサト・トシノブ 山田正亮 宮脇愛子 菅井汲 星川あさこ

今井俊満 堂本尚郎 わきもとさき 松澤宥 松井康成 川井雄仁 横山大観

 

※出品作家は一部変更になる場合がございます。

 

 

【梅津庸一ステートメント】

美術家であるわたしがキュレーターシップを行使しながらも、ひとりの美術家としても振る舞う。内なる美術家と内なるキュレーターとの間で執り行われる密輸と交渉。この二重性については留意しておく必要があるだろう。

本展はいわゆる「現代アート」の展覧会ではない。日本における「造形」の変遷や「ありよう」を主軸としながら、「美術なるもの」にまつわる魔術性や禍々しさについて言及するものである。

 

 

あらためて確認するまでもなく、日本という国は様々な民族が移入し様々な文化を受け入れることでかたちづくられてきた。身近なところで言えば、漢字、ひらがな、カタカナなどわたしたちが使う文字がそれを如実に物語っている。日本という場所は大陸から渡って来た人々の吹き溜まりと言える。

 

かつて岡本太郎が出会い、魅了された縄文の文化も実際のところ日本独自のものとは言い切れない。一般的に美術というと西洋から輸入されたもの、もしくは古来より日本にあったとされるものを指す。周知の通り、ひとえに美術と言っても「洋画」、「日本画」、「彫刻」、「戦後の前衛美術」、「現代アート」など枚挙に暇がない。ことに「現代アート」と呼ばれるジャンルは「コンセプチュアルアート」、「ミニマルアート」、「メディアアート」、「ネオ・ポップ」、「ネオ受験絵画」、「ポスト・インターネット」さらに「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」と呼ばれる社会と密接に結びつき社会変革を促していこうというアートの形態など、様々な価値観や理念で駆動するクラスタが「現代アート」の中には存在する。いまや「現代アート」は全体を把握することが不可能なほど膨張したプラットフォームとなりつつあり、様々なクラスタがなんとなく軒を連ねるだけのたんなるフードコートのような場所になってしまったとも言えるのではないだろうか。

わたしは、そんな「現代アート」を含めた様々なジャンルやクラスタのうち、どれが優れていて、どれが劣っているのかという類の議論には懐疑的だ。それぞれのクラスタは程度の差こそあれ、それぞれが違った「理念」や「政治」によって駆動している。このようなジャンルの区分があることで発展してきた側面は多分にあるだろう。しかしながら、それぞれの陣営はもともと深く関係しあっていたはずなのだ。また、定年後もしくは子育てを終えた人々が公民館などに通い活動する絵画サークルで制作される作品と美術館にコレクションされ「評価」されている作品が隣同士に並ぶことは非常に稀である。プロとアマチュアの線引きの根拠はいったいどこにあるのだろう。

 

本展はそんな「評価」や「時流」と密接に関わってきた三越を舞台に開かれる展覧会である。現代の作家、日曜画家、物故作家、セカンダリーと呼ばれる美術の市場を循環する作品たちが星座のようにゆるやかに結びつく。実際の空間、そして批評空間でも並置されることのなかった作品たちがクラスタや政治的区分を越えて集う、空想上の美術館のような展覧会。

しかし、あらゆるものすべてを相対化することは展覧会という形式の性質上難しい。したがってこの展覧会に出展される作品にも一定の偏りや欠落が生じてしまうことは避けられないだろう。そして様々なクラスタの作品、中央から周縁までをフラットに陳列し、すべてが等価であると主張し、多様性や多元性を謳うことはもはや有効ではない。現代の視覚メディアはそもそも美術の領域よりもずっと広大である上に、日々更新されているため相対化することは到底、不可能なのだ。

 

本展のミッションは「美術なるもの」の相対化でも、モダニズムを今さら否定することでもなく、美術における近代から現代に至る「造形」の変遷をあぶり出し「丸裸」にすることである。それは批評空間に召喚しやすい諸条件を満たした、ある特定の作品群や事例によって紡がれてきた既存の美術史の問い直しでもある。本展は既存の言説と親和性の高い、例えば、絵画における「キュビスム」のようなわかりやすい特徴を持つ作例を集めてきて比較検討するような試みとは無縁である。歴史的反省や確固たる制作理論に裏付けられ、構造や方法論があけすけに開示された作品は言説との相性が良く、近年より多くの言葉が与えられてきた。

しかし、わたしはそんなプレイ環境に最適化し、一見きれいな解答を導き出しているように見える作品よりも、それ以外の未分類の雑多な情報に満ちた作品群にこそ関心がある。いや、すべての作品は不完全であり欠陥を伴うのだ。本展はそれらを見つめ直し、言葉を紡いでいくための契機としたい。今日の美術批評はきわめて偏っている。キュレーションについてばかり論じられ、作品自体を語る際も、直感やセンスによって恣意的に生み出された、古びたスタイルをただ反復している、見かけだけで理念がない、たんに目の前のものを模倣しているに過ぎない、などと見なされた作品は批評の対象にすらならないのが現状である。

 

作品の様式や主題だけでは括れない制作の原理にぐっとにじり寄れば作家の持つ固有名や出自、クラスタから「造形言語」は遊離し、これまでとは違った顔を覗かせるはずだ。作家は何かしらの理念に基づき制作の術を実装するが、それが完全であったためしなどない。「造形」から確認できるのは作品の美点だけではない。「蒙古斑」のような恥ずかしい汚点を黙殺してはならない。その汚点こそが様式・形式や様々な実践を貫く指針となり得るのだから。「造形」は人間の生理や知覚の限界とも密接に繋がっているため、造形の変遷を丹念に追えば美術史やジャンルの区分からの拘束から逃れることができる。造形における汚点、粗が前景化しにくい方法論をとることで造形の厄介さをスルーすることは可能だ。しかし批評はそういった狡猾とも言える作品ばかりを無自覚的に対象としてきた。現在のアートシーン、及び美術史観はこうした価値観を中心に形作られてきてしまったのだ。それは「人がものを作るものとはいったい何か?」、「美術とはいったい何か?」という本質的な問いを遠ざけてきたとも言えるのではないだろうか。

 

これを書いているのは展覧会の開催前なので、あまり詳しく触れることはできないが、本展の構想段階の会場の様子をざっくりと素描してみたい。

 

 

会場に入るといきなり突っ張り棒のようなポールに設置されたディスプレイが現れる。CGで精巧に作られた電車の車内の映像作品、山形一生『Camera Object』(2020年)である。絵画作品は基本的に静止画であるが、この展覧会は動画の運動から始まる。はるか後方には横山大観の富士山の絵が見える。東京ディズニーランドのシンデレラ城のようにこの富士山にたどり着くためには大きく迂回する必要がある。

富士山の前に立っているのは山本桂輔『鳥とおともだち』(2016年)である。地方のテーマパークにありそうな不気味なダークファンタジーを帯びた立像だ。この彫刻は六甲山の植物園の一角に野外彫刻として3ヶ月展示された後、修復がなされている。頭部が鳥の巣箱になっており、自然との関わりが試みられたが、実際に巣として使われた形跡はなかったという。

会場を左手に進むと梅津庸一『フル・フロンタル』(2018年-)が緩やかに弧を描きながら仮設壁のごとく自立し空間を区切っている。下からピンクからクリーム、エメラルドグリーン、ロイヤルブルーへと変化する階調を有する自画像の背景は新関創之介『緋に染まる』(2020年)や山田優アントニ『heart』(2018年)と主題も様式も全く異なるにも関わらず、共振が認められるだろう。坂本繁二郎の虹色のスペクトルのなかを自在に行き来するような色使いを想起させるし、合田佐和子や奥山民枝の作品のシャボン玉の表面のようなグラデーションとも近しいと言える。

桑原正彦『経済価値』(1999年)は豚らしきキャラクターがハイトーンかつグレイッシュな色で描かれ、両腕は肉の切断面のようにも羽のようにも見える。90年代の現代アートシーンにおける絵画制作の所作をまさに体現している大らかでぞんざいな筆運びにも注目したい。桑原と対象的なのは馬越陽子の作品である。長谷川利行やジョルジュ・ルオーを思わせる重厚な画面。独立展でよく見られるような色使いが特徴的だ。過去にインタビューで「絵の具を食べてしまいたい」と語っているが、馬越の絵はまさに「肉」であり「瘡蓋」なのである。

梅津庸一『昼‐空虚な祝祭と内なる共同体について』(2015-2020年)はホドラーの『昼』(1899年)を下敷きにした作品であり、1899年のパリ万博で発表されたことで知られている。ちなみにアニメ「ふしぎの海のナディア」の主人公であるナディアとジャンはその10年前にあたる1889年に開催されたパリ万博の会場で出会っている。本作は図像こそホドラーの『昼』から引用しているが、画面は細胞とも画素とも言い難い点や斑で覆われている。隣に配された瑛九『花火』(1957年)は小ぶりの板に描かれた油彩画である。色とりどりの大小の斑の周りには放射状にタッチの線分がぐるりと並び、時にその規則性を阻害するタッチが差し込まれる。凝視していると網膜がチカチカし、眼圧が高まってくるのがわかる。

山形一生『I’m not a robot』(2017年)は顕微鏡のプレパラートのような細長い透明なアクリル板に裏面からアニメのセル画を描く要領でコンピュータの認証システムを描いた絵画作品だ。「人間」と「ボット」を見分けるための一種の「踏み絵」である。観客の「主体」が人間であるか問う不気味な作品だ。鑑賞者は作品を見て感受したもの自体、そして「わたし」を疑うことになるだろう。

内田一子の静物画は一見、平凡な絵だが、クッキーモンスターのようなブルーから小豆色に近いマルーンまでがボナールを思わせる色彩設計で構築されている。画面の表面はまるで軽石のような多孔質の凹凸を形成しており、油絵具というペースト状のメディウムを飼いならしている。麻田浩『深みより』(1981年)も同じく静物画であるが、内田とは様子がまるで異なる。アンティークや朽ちた木片や小物をシュールレアリスム的感受性によって構成し、70年代初頭の山本文彦の静物画を思わせるようなメランコリックな雰囲気を漂わせている。しかし麻田は画面に今にもこぼれ落ちそうな水滴を描き込むなど、トロンプイユ的要素が山本よりも強い。様々な個人的な記憶を物や形に託して各素材の質感を丁寧に描写しつつも絵の具によるシミや滴りとのあわいの中でモニュメンタルな像を編んでいく、という点においては山田優アントニとも深く共鳴している。山田は肖像画家の祖父と父のいる環境で育ったことが現在の作品に深く影響しているようだ。山田の描く人物は表面だけの薄皮だけで組織されているように感じるが、それは有元利夫や播磨みどりとも通じるだろう。

播磨の『無題(少女)』(2011年)はローポリゴンを思わせる張子状の「ひとがた」にウェブ媒体と紙媒体の両方から匿名の複数の人物の画像をサンプリングし、ゼロックスコピーを用いて紙に出力したものを、テクスチャマッピングの要領でモザイク状につなぎ合わせながらコラージュしている。梅津の『フル・フロンタル』の全身像とも呼応する。岡本秀『幽霊の支度』(2019年)もまた襖に画中画として描かれたキョンシーの立像がまるで転写されたかのように反復している。(ただし首の傾きは微妙に異なる。)形骸化した文化リソースの運用という点においては梅津作品とも重なる。また額縁には襖のフレームや畳の写真が用いられており、過去にどこかで展示されたようなドキュメント性を示唆すると同時に、絵画の中の世界と現実の空間との接触面を融解させている。岡本作品の隣には山田正亮の白く塗りこめられたオールオーバーな画面に水平のスリットが1本だけ走っている作品『work C』(1966年)が配されている。岡本の絵の中の空間と対応するように会場にはさらに奥に小部屋が続く。

その小部屋はこれまでとは違う密度を持っている。以前、哲学者の星野太が「未遂の花粉」展に寄せた展覧会評で「瘴気」という言葉を使ったが、まさに瘴気が満ちた部屋だ。日本概念派として知られる松澤宥の「オブジェを消せ」という啓示(1964年)を受ける以前の50年代のものと推測される初期ドローイングや、菅井汲『そよかぜ』(1957-58年)、今井俊満『無題』(1959年)が並ぶ。それらはいずれも「日の丸構図」である。そこに星川あさこ『存在の枠組み』(2020年)が揺さぶりをかける。薄いベニヤ板に針金とシリコン樹脂によってレリーフ状の輪がいくつか形作られている。白を塗って作ったベースの上にはルミナスピンク、黒、緑、ベージュ、茶が施され、最後に引っかき傷のような描線が付与されている。いかにも情念がこもっていそうなイメージにも関わらず、画面は驚くほどからっとしている。美術史上の「アンフォルメル」を経由していないものの、溶解しながらもかろうじて形をとどめている様は「不定形の炎症」という言葉が似つかわしい。星川は自身をモチーフに、「わたし」が菌類の増殖や細胞が分裂するかのように作品を生成するが、作品単体の内部でもその営みは反復しているように見える。

堂本尚郎『作品』(1958年)はアンフォルメル運動の影響下にある時期の作品だ。人間の腕の可動範囲に準じたカーブによって台風の暴風域のようなうねりが生み出される。ゆるく溶いた絵の具の滴りや飛沫も相まって気象や気圧を感じさせる画面となっている。隣に配されたわきもとさき『わたしはおうちのお当番』(2020年)は身近なものを寄せ集めたコラージュ作品である。制作と生活を極限まで接近させるわきもとは自宅アパートを借り暮らすことと、制作において素材を仮に配置し決定していくことに同じものを見ており、制作過程で作品と一緒にお風呂に入り、作品の上で寝たりすることも厭わない。作品には画材以外の様々なものが付着している。それは彦坂尚嘉が自宅個展のために自室にラテックスをぶちまけた『フロアイベントNo.1』(1970年)を思い起こさせる。

奥の棚には松井康成の丸い毛糸の帽子のような壺が鎮座している。色の違う粘土がストライプ状に積み上がり表面にはサブレのような亀裂がまんべんなく入っている。つまりツボの外側をほとんど触れずに成形されていることになる。色の違う粘土は焼成による伸縮率も異なるがすべての帳尻が壺というフォルムの中でかみ合っている。一方、隣に置かれた川井雄仁の陶器は粘土に通常ではありえないほど多くの釉薬を混ぜ込んでいる。釉薬はガラス質なので当然粘土は焼成の際に大きく動く。伝統的な陶器の典型的なフォルムからは程遠く、粘土というよりも絵の具の塊で作られたように見えなくもない。川井の陶器はユーザーに優しい工業製品としての絵の具をレディメイドのように扱ってみせる画家に対しての挑発とも読めるだろう。松井、川井の陶器の背景には山本桂輔の絵画『Untitled』(2011年)が見える。この作品は山本作品としては比較的珍しい横長のフォーマットが採用されている。半透明の水平の帯がびっちりと敷き詰められ、本展の会場のフローリングの床材、そして階段を思わせる。そんな多視点が重なった空間には円に近い丸から楕円まで様々なスケールの水玉模様が浮かぶ。それらは敢えて浅く設えた絵画空間の様々な深さで地と互いに浸透しあっているが、水差しや丸いオブジェの影としても機能している。ほかにも惑星の公転軌道を思わせる線が内接することによって形作られたものもある。それは魔法陣グルグルに登場する魔法陣「ベームベーム」を想起させる図形であり、山本作品における呪術性のアイコンの役割も担っている。庭の手入れをするように生成された本作はパウル・クレーの「造形」を思わせるが、数多のクレーの信仰者たちのような臆病さを微塵も感じさせない。

 

丹念に見ていくと戦後の前衛美術、美大受験の際に描かれる受験絵画、絵画教室で描かれる絵画、団体公募展系の作品はたしかにそれぞれ違った特徴があるが、実は相当の部分で共通のメカニズムが駆動しており、作品同士の対話が可能であることが確認できる。

ここで挙げたのはほんの一例に過ぎないが、本展は作品同士がネットワークを形成していることが可視化されるよう丁寧に作品選定がなされ、リンクも何重にも貼られている。

 

「造形」を起点に作家の制作の現場における想像力や反射神経や動体視力がいかに行使されたのか、を展覧会場に再構築する。また、本展は出展作家だけのグループ展ではない。この展覧会はここに出展していない作家たちの展覧会でもあるのだ。ある鑑賞者は現在、約900種存在するとされるポケットモンスターさながらに数々の作家を頭の中で補完しながら、ある鑑賞者は名もなき作家たちを思い、ある鑑賞者は自分自身と重ねながら、会場を周遊するだろう。

 

「美術なるもの」とは特定の何かではなく生態系そのものであり、その中での循環する「うごめき」なのだとわたしは考えている。本展ではその「うごめき」を造形の原理と鑑賞者の運動とを同期させることによって提示したい。

 

春曇りの弱々しい陽光のもと、乾いた風が吹き、長い間使われていなかった用水路には汚水が流れている。起伏のある地形には様々なクラスタが発する花粉が漂い、循環し、滞留している。眼前に広がる風景は、「わたし」の自画像であり、小さな独立国家の構想画でもある。

 

(2020年4月1日、相模原にて)

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